2014-02-24

NBCの看板番組『The Tonight Show』とアメリカのTV局のオンライン戦略

『The Tonight Show』というのは1954年から始まった、NBCというTV局のアメリカの長寿番組である。
この番組の司会者が先週からJimmy Fallonという人に代わったので、見ることにした。

なぜJimmy Fallonだと見るのか?
大した理由はない。ただ、Jimmyさんが友達にめちゃくちゃ似てて気になったからである。

これは地下鉄の駅に貼ってあったポスター。ああ、どこから見てもB(友達)に見える。

B…ではなく、Jimmyさんはバスのラッピングにも登場。
いつも思うんだけど、こういうところに自分の姿が出ている、ってどういう気持ちになるものなのだろうか?

ちなみにJimmyさんは若者に大人気だそうで、アメリカ人同僚に聞くともうほとんどヒーロー扱いである。そんな彼が伝統的な番組の司会になるということで、話題を呼んでいる。

NewsweekはJimmyさんの人気について、こんな風に書いている。
Jimmy Fallon, still not yet 40 years old and equally beloved by both Williamsburg hipsters and Compton gangstas, has arrived (although he never really left, not even the building). Fallon has come to reclaim The Tonight Show in the name of both New York City and the coveted 18-34 demographic.(Newsweekより)
Compton gangstasという新しい若者のグループを知りました(西海岸のラッパー風だぼだぼファッションの若者らしい)
Williamsburgはこんなかんじ(過去記事)のおしゃれタウンで、わたしはニューヨークの吉祥寺だと思っている。

若者に絶大な支持を得るJimmyさんを司会に据えて番組を刷新し、広報に余念がないNBCであるが、これはここのところ同じような番組が11時半くらいの時間に乱立していて、視聴者を奪い合う戦いが激しいからのようである。
ざっと見ただけで、これだけ見つかった。


みんな、スーツ姿のネクタイを締めた男性が司会者で、この中にいるとJimmyさんの若さが際立つ。

Tonight Showを含めたこういう系の番組のテンプレートは、

  • 司会者がゲストを呼んで話を聞いたり、一緒にゲームをやる
  • 司会者や出演者が時事ネタを元にしたジョークを披露する

というかんじで、前者は『笑っていいとも』や『徹子の部屋』を彷彿とさせる。
後者は日本で言うところの漫才とかに通じそうである、時事ネタをうまいこと皮肉っぽいジョークにする手腕には感心させられる。

ちょうど昨日、ニュースを切り取ってラップにした、というこの動画が日本の人たちのTwitter上(Twitterに国境はないが)で話題になっていたが、これもTonight Showでやってたネタなんだよー!と声を大にして言いたかったのだった。

すごいなー言葉をつなぎ合わせて音楽をくっつけてラップにしている。
作るのは大変だったろうと推察するが。


わたしはこのネタが気に入っている。
Twitter上の会話をリアルでやってみよう!というネタなのだが、ハッシュタグうざいよねーという皮肉だと思う。
(念のため、ハッシュタグとはTwitterで製品の名前とかをつぶやくときに「#」をつけてつぶやいて、関連する情報の検索を簡単にする手法である。例えばこんなかんじ)
アメリカではテレビでも広告でも、「ハッシュタグをつけてつぶやいて」というのがめちゃくちゃ多いのだ…はいはい、マーケティング戦略ですね。はいはい。

これは初日のひとこま。
Jimmyさんが、「私がTonight Showの司会者にはならないというのに100ドルかけた人たち、覚えてるからね」とTVの向こうに話しかけるのだが、そのあと次々にJimmyさんの友達(という設定の有名人)が100ドルを支払いにやってくる、というネタである。
友達設定の人の中には、元ニューヨーク市長のジュリアーニ氏やロバート・デニーロ、ガガ様もいて、ちょいネタにしては豪華な面子だ。
ちなみに最後に写真を撮っている人は、前述のThe Colbert Reportという同じ時間帯の裏番組をやっている人だそうだ。なので、「Welcome to 11:30, bitch!」というわけだ。
日本で例えたら、お昼のタモさんの番組にみのもんたがやってきて、嫌味を言うかんじだ。…あれ?まだ両方やってるんだっけ?
ところで恥ずかしながら、bitchって男性に対しても使うんだ、ということをこの動画で学びました。


今回貼り付けた動画はYoutubeから持ってきたのだが、Tonight Showは公式サイトやYoutubeで一部を公開している。
さらに、放送翌日にはHuluでも配信される。Huluだと字幕入れられるので、時事ネタと英語の勉強にもいい。


これは、ミシェル・オバマが出たときのコメディー。Huluで字幕を入れた画面を持ってきてみた。


TV局が自分の番組をYoutubeや公式サイトでがんがん公開するのは、日本の常識からするとちょっとびっくりなのだが、各局がオンライン対応を進めるその背景にはHuluやNetflixといったオンラインストリーミングサービスの普及がある。

アメリカでTVを視聴する際には有料放送の契約をするのが一般的と言われている。
しかし、ここのところ、光やCATV回線を契約しても、TVオプションはつけずに、インターネットだけ家にひいて、番組はHuluやNetflixというストリーミングサービスで見るという人が特に若者の中で多いように感じる。
実際、わたしの周りの20代の子たちに話を聞くと、大体TVの契約はしていない。
さらに、これまでTVを契約していたのだが、TVを解約してインターネットだけ残す人たちが500万人に達しているという情報もある。(ソース) こういう人たちは「Cord Cutter」と呼ばれている。
TVを契約すると月100ドルくらいになるのだが、インターネットだけだと30ドルくらいから契約できる。HuluやNetflixが10ドルくらいなので、だいぶお手ごろである。


ここまで書いてきてなんだが、わたしは、あまりテレビを見ない。
決まった時刻にTVの前にいなきゃいけないのがいやだし、録画もめんどくさいし、好みの番組を見つけられない。
読書やゲームだったら好きな時間に好きなだけできるのがいい。(と言いつつ、土日が終わっていたりするが…)
しかし、オンラインストリーミングは、これらのTVのめんどくささをすべて解決してくれる。
好きな時刻に、好きな場所で見られるし(お風呂のお供に超いい)、好みの番組はこれまでに見た履歴からおすすめしてもらえる。また、Twitterやフェイスブックで共有するのも、されるのも簡単だ。
広告収入が減るって?ストリーミングのしくみをさっさと作って、そっちでも広告をきっちり流すようにすれば問題なし!がんばれ日本のテクノロジー!


…ということで、天下のNHK様!
いろいろ大変な時期かとは思いますが、ぜひ、朝ドラと大河ドラマあたりからオンラインストリーミングでの新しいビジネスを考えてみてはいかがでしょうか!
御社でしたら広告収入の問題はありませんし、技術開発も短期間でできるかと思いますので、ぜひパイオニアとしてこの業界への参入を!
よろしくお願いします!


…ある海外在住者の祈りでした。
NHKオンデマンドは海外からは見られないんですよ…一番必要なのに!!


◆◆◆

ちょっと前に書いた関連記事はこちら。

最強のお風呂のお供=iPad+防水カバー+Netflix(Hulu)

The Tonight Showに興味を持ったみなさん、こちらの公式サイトでいろいろ見られるのでどうぞ。
The Tonight Show公式サイト
(「すた」さんに日本からも見られるというのを確認してもらいました。ありがとうございます!)


◆◆◆

(2014/2/28追記)
なーんて言っていたら、Huluの日本事業を日本テレビが買収するというニュースが入ってきた。

Huluのサヨナラニッポン, 日本法人を日テレに売却(Tech Crunch)

本文中でNHKさんにお願いしておきながらなんだが、こういう事業は放送事業者がやると見られるコンテンツが限られてしまうという恐れもある。
日テレのコンテンツだけで囲うのか、それとも幅広くいろんなコンテンツを入れていくのか、さらにはアメリカでオンラインストリーミング事業者がやっているようにオリジナルコンテンツを流すのか、今後のビジネスに注目である。

2014-02-15

雪の日の過ごし方 勝手に日米比較

日本が大雪で大変そうだが、長く住んでいる方たちに言わせると、今年のニューヨークも近年まれに見る寒さと雪らしい。
今も灰のように大きなかけらの雪が落ちてきている。
先週も降ったし、2日前にも10センチくらい積もっただろうか。ここのところ、道路脇の雪は、消えそうになると新しい層を重ねて、べちょべちょになりながらもずっと存在を主張している。

ニューヨークで雪が降るといやなのは、道路の水はけの悪さである。
(DAILY NEWSより)
こんな風に、行き場のない水が道路に溢れていて、道を渡るのが大変なのである…
だからそのとき雪が降っていなくても、雪が降ったあとはしばらく長靴は必須だ!ということを覚えた。
油断して普通の靴で出てきちゃった人を尻目に水たまりに飛び込むときの爽快感ったら!
ということで、先日もうろたえる観光客っぽい人の前で得意げに水たまりに飛び込んだら、すぐ近くに浮いていた氷の固まりがはねて、長靴の口から内部に侵入してきた。
…やっぱり飛び込むのはやめよう。

◆◆◆

ところで、ニューヨークに暮らしていると、雪による予定キャンセルがよくあるなあと感じる。
ご飯を食べに行くとか、舞台を見にいくとかそういう約束は、たいてい大雪という情報が入った段階で相手から「今日は雪だから別の日にしない?」という提案がされる。

学校や会社がお休みになることも多いようだ。会社はまちまちなので、お休みにならない側の会社の人が文句を言っているのをよく聞く。
雪の日は何をするのもものすごく不安定で不便だし、家に帰れなくなる可能性があるので、人々はなるべく家にいられるようにするし、学校や会社もそうするべきと考えているようだ。

そんな「雪の日は家にこもるのが一番」派が多いニューヨークだが、de Blasioニューヨーク市長が、雪の日に学校を休校にしなかったということで批判を浴びているらしい。




市長の言い分だと家だとご飯が食べられない(!!)子供がいるので、通常通り学校を開いたとのことだが、まず学校まで行くのが大変だし、危ないじゃないか!ということで、決定に批判的な意見が出ている。
有名なお天気レポーターのAl Roker氏が市長の決定をTwitterで批判したというのも、議論の火に油を注いでいるようだ。




日本の大雪のニュースを見て、ニューヨーカーの「雪の日は家にこもる」という潔いまでの姿勢をちょっと見習ってもいいんじゃないかなあと思った。
日本では「約束は絶対!」という感じが強くないだろうか。

東京に住んでいた頃、雪が降ったから休みますとか、予定をキャンセルしますとか、なんとなく言いづらい雰囲気があった。
お店とかだと雪だろうがなんだろうがキャンセル料を取られたりするし(仕方ない理由もわかる)、公的機関は締め切りを過ぎたら受け付けてくれない。
こういう日本のきっちりしたところは正しいし助けられる部分も多いのだけど、行き過ぎると人々を危険な目に遭わせるんじゃないだろうか。

今回は天気予報が大きくはずれたという不運があるそうだけど、外を見れば大雪っていうのがわかっている状況なのに、
「電車を走らせろ!」とか、「宅配が時間通り届かない!」とか、「田舎で携帯が3Gしかつながらなくて遅い!」というような文句をインターネットで見ると、「サービスを提供する側も人なのになあ…」とものすごくやるせない気持ちになる。
わたしは、安全じゃないかもしれない線路を走る電車に乗る方が怖い。宅配便は雪がとけて道ができてからでもいいじゃん。こんな日なら携帯はつながるだけでもありがたいじゃないか!

人それぞれの事情があるのはわかる。でも大雪の日にまで、自分の行動を変えずに、最高品質を求めなくてもいいんじゃないかなあ。
もちろん、特にライフライン系のサービスを提供する側が、自然災害に備えた仕組みを準備しておくことは大切だと思う。
でも、サービスを受ける側も「雪だから仕方ない」って多少の不便や遅れや延期、中止とかの予定の変更を柔軟に許せるようになればいいのになあと思う。

日本では時間通りに走る電車や、時間指定配送、そして豊富な品揃えの24時間営業のコンビニや素晴らしい品質を誇るライフラインのおかげで、普段は制約のない超便利な生活ができる。
それ自体がものすごいことなんですよ!と制約ありまくりのアメリカから叫びたい…のはひとまず置いといて、そういう超便利な生活に慣れてしまうと、今回のような非常時に対する警戒心が薄れてしまうのかもしれない。

流通が途絶えて食べ物が手に入らなくなるとか、携帯がつながらなくなるとか、家に帰れなくなるとか、震災で経験したことも多いから、あの教訓を忘れてはいけないなあと自戒するのであった。

◆◆◆

長くなってしまった。
最後に、先月の大雪のときのアメリカのニュース番組のはしゃぎっぷりを紹介して終わりにしよう。

これは『TODAY』という朝のニュース番組で、日本の某ニュースのように、外からの中継を交えて生放送しているのだが、先月の大雪の日のセットはやけに大掛かりだった。

雪が降ってるのに、外にソファーを置いて、たき火してる…
さらにキャスターたちはニュースを伝えながら、長い棒にマシュマロを刺してあぶって食べているのである。お行儀悪い…
(ちなみにキャスターたちの前に置いてあるのはホットチョコレート)

でもって、あぶったマシュマロを指し棒にしてお天気を解説する人!!
…あ、これ、前述の学校を休校しなかったことを批判したAl Rokerさんじゃん…
大雪なのに外出てる…中でやってください…


雪の日は正々堂々家にこもろうぜ!!
…ということでこれをやって3連休が終わりそう。

いやーぷよぷよはやばい。いくらでもできちゃう。
インターネット経由で夫や日本の弟妹と対戦しております
…平和ぼけですみません。

以上、引きこもりに正当な理由ができてちょっと嬉しいわたしが雪のニューヨークからお送りしました。

2014-02-09

三浦しをんさん本、全制覇計画(エッセイ編)

先日の小説編(こちら)に続き、今日は三浦しをんさんのエッセイを紹介したい。
エッセイって久しぶりに読んだのだけど、小説も含めて一気に読むと、「ああ、これは作者の信念みたいなものなのねー」というのが透けて見えてきて楽しい。
前回同様、それぞれの著作から言葉をひとつだけ抜き出そう。「ひとつだけ」ってほんと苦しい…

◆◆◆

様々な職業の人に著者がインタビューしたものをまとめた本。
おみやげ屋さんとか、動物園の飼育員さんとか、編集者さんとか、職業として存在は知っているけれど、実際どういう生活を送っているのか気になる!という人の話がたくさんあって楽しい。しかも全部女性。
仕事に打ちこむ理由の根底には、「自分という存在を証したい」「だれかとつながりたい」といった思いがあるのではないか。その思いの表れかたや実現の方法はさまざまだから、「こうすれば効率がいいですよ」と画一的に提示できるものではない。
世の中にはいやいや、仕方なく働いているっていう人もいるだろう。
でもなんというか、特に日本の人たちの働き方を見ていると、単なる「お金のため」という目的を超えた情熱だったり、責任感だったりを感じることが多い。
以前読んだ本で、フランスのホームレスの人に何が欲しいか?と聞くと「食べ物」と答えるのだが、日本のホームレスの人に同じ質問を投げかけると「仕事」と答えるというのを見た。(この本なので興味があればどうぞ)
そういう人たちの熱心さは、責任感が強すぎて自分を傷つけてしまうこともあるけれど、いいところだよなあって思うのである。
あんまり仕事命になりすぎちゃって家庭を顧みない人がいることはあまりよくないけど、結局そこまで打ち込むのって、「自分が何かを残したい」「認められたい」という、人間の奥深くにある欲求がそうさせてるんじゃないかなあと思うのであった。



こちらはかなり前に出版された模様のエッセイ。あとがきに2000年って書いてある。
作者の妄想が笑えるもの、観察力に感嘆させられるものなどなど、いろんな小話が入っていて楽しい。これはどのエッセイにも言えるのだけど、読みながら数回声を上げて爆笑した。
三浦さんはちょっと変わった名前のせいで小さい頃からめんどくさい経験をしてきたそうで、その経験を元に名付けの注意点を述べている。
一、平凡な顔、特技なし、の人間が大半です。あなたの子供も確率的にいって、たぶん平凡です。あまり凝った名前はやめましょう。生きるのがつらいです。
二、当て字は避けましょう。(中略) 意味を持たせた漢字にすべきです。
三、誰かに聞かれた時に子供が答えやすいような由来を、ちゃんと考えておいてあげましょう。小学校という恐怖の教育機関が、お子さんを待ち受けていることをお忘れなく。
ああ、キラキラネーム反対派に代わって作者が言ってくれました。
確かに、名前の由来って小学校で聞かれるよねえ。そのときに理由が答えられないと…いや、今はココアちゃんとかいっぱいいるみたいだし、大丈夫そう(?)な気がするが。
ところで、今月生まれる予定の弟の娘の名前にひやひやしているわたしである。ココアではないと言ってたけど、大丈夫かなあ。…おっと話がそれました。


これは先日のエントリー、『もぞもぞする日本語』でも紹介した本。
著者の文章力と観察力に支えられた、軽すぎず、重すぎず、なおもしろエッセイ。
日々、自分の周りに起こる出来事を観察して、どういう意味を持つのか?というところを妄想を含めていろいろ考えているんだろうなあと想像する。
福山雅治の『東京にもあったんだ』という曲を聴いてもやもやしたという話から。
細かい実態よりも、最大公約数に伝わりやすいイメージのほうを選択するのは、創作物を成り立たせる手法として、大いにありだろう。(中略)何かの実態を細かく描写することが、必ずしも、多くのひとに伝わる表現であることとイコールではない、というのが、創作の難しいところだよなあと、母がうっとり聞いてる福山氏の『東京にもあったんだ』を耳にするたび、つくづく実感されるのだった。
歌にあるステレオタイプな「東京」のイメージにもやもやして、この結論に至るという経緯がおもしろい。
ステレオタイプなイメージで自分を断じられると「全然わかってない!」っていう居心地の悪さを感じるのに、自分と直接結びつきがないものとか、どこかで対抗心を抱いているものをステレオタイプに断じてしまうのには気をつけなければいけないなあと思う。
ところで最近、ウェブとかIT系の話をものすごーーーく噛み砕いて話してくれる男性がいたので、思わず「わたし情報工学科卒なんです」って言ったら、「えっ、そうだったんですか」と目を白黒されたあと、その後の会話が途切れたという経験をした。
理系は数が少ないってことはわたしも十分にわかっているつもりだけど、女性は文系で、技術の話がわからないだろう、というイメージが根強いんだろうなあと思ったできごとだった。これもステレオタイプのひとつである。


こちらもかなり前のエッセイ。2002年刊のようです。
10年以上も前からこんなにおもしろい著作を出し続けているという作者の溢れる才能に震えそうである。
この本からは、「夫婦別姓ばんざーい!みんなわたしのことは名字(旧姓)で呼べや!」(過去記事)と公言してはばからないわたしのもやもやを明文化してくれたこの言葉を。
だって大臣なんですよ?もしくは犯罪を犯したとして社会的に裁かれようとしている人なのですよ?それなのになんで私的なにおいの強い下の名前で呼ばれないといけないんだろう。私は凶悪犯罪を起こして裁判にかけられたとしても、しをん被告とは呼ばれたくない。他の男性犯罪者の方々と同じように、ミウラ被告と呼んでいただきたいわ。(中略)とにかく、なんで女性の場合には下の名前に「公」のポジションをくっつけて呼ぶことが多いのか、というその根拠を教えてほしいものだ。
ぱちぱちぱちぱち!(拍手)
これは田中眞紀子大臣やヒ素カレー事件の林眞須美被告を、下の名前で呼ぶのに違和感を感じた著者の弁である。
本当によくわかる。なんで女だと見ると名前で呼ぶ男の人が多いのか!
…………
わたしの場合は、よく考えたら名字で呼んでくる人ばっかりだった。すみません。自意識過剰ってやつです。
しかし昔から、学校や会社で名字で呼ばれることが多かったわたしは、下の名前で呼ばれる人とは何か根本的に違うものがあるんだろうなあーとぼんやり考えている。
それはきっと、「女として重要」と男性が考えている、その子のかわいらしさとか御しやすさとかなんだろうなあー。あと心を開いてくれていないとかね。
…ううっ、やめよう。もう自分を追いつめるのはこのくらいにしておこう。ひがんでなんかないやい。


三浦さんの書評を集めた本。本当に幅広い本が紹介されていて、そんな本があるの!?というのもたくさん。読んでみたくなることうけあいである。
「常識」が人々を息苦しくさせ、だれかを排除し差別する構造を生みだしているのなら、いまを生きる私たちは、「常識」を変える努力をしなければならない。「常識を変えるなんて非常識だ」と畏れる必要はない。「常識」が時代とともに変容するものなのは、歴史が証明する事実だ。
わたしはいつも、「常識って何?」と思っている。
「常識的に考えて○○だろう」とか、「○○するのが普通」とか、世の中に溢れてるけど、誰が決めたことなんですか?それ法律なんですか?…くそっ、前時代的な法律か、だったら変えてしまえ!「だめならば、変えてしまえよ、法律を!」だ!
…あ、はい。これは夫婦別姓が許されていない件についてです。
常識だー普通だーとが口癖の人がいると、「大丈夫、普通じゃないと思ってるわたしの方が長生きするから」と自分に言い聞かせているわたしである。不謹慎ですみません…
ともあれ、「常識」って不変のものではないし、疑ってかかってもいいと思っている。


◆◆◆

どうやらわたしのKindleの中の三浦さん本は以上のようです。
他にも『天国旅行』とか『きみはポラリス』とか、気になるけど電子書籍になってない本がたくさんあるので、どうかニューヨークでも読めるように全部Kindleにしてください。お願いします!!

祈るような気持ちで、今日もAmazonの「Kindle化リクエスト」のリンクを何度もクリックしてしまうわたしであった。

2014-02-08

三浦しをんさん本、全制覇計画(小説編)

先日の角川セール(過去記事)でたっぷり本を買い込んだわたしだが、その中ですっかり三浦しをんさんの本にはまってしまった。
30冊を超える角川本のストックをとりあえず頭の片隅に追いやって(一時的積読)、三浦さんの本を買う。読む。買う。読む。

…気づいたらKindleで買える本をコンプリートしていた。

三浦さんの本には、物事の考え方や、見方に対するはっとさせられる言葉がちりばめられている。今日は各本とその中の珠玉の言葉をひとつだけ抜き出して紹介したい。
あ、ちなみにわたしのとっての珠玉の言葉とは、「名言」なだけでなく、その場の状況が生々しく伝わってくる描写だったり、わかるわかると同意してしまうような心理だったり、そういう言葉も含むので、肩すかしだったらごめんなさい。…と逃げ道を作っておく。

ちなみにわたしのKindleに入っている三浦さんの本は17冊。
さすがに一度に全部を載せると大変な長さになるので、今日は小説のみ紹介したい。

◆◆◆

大学生10人が箱根駅伝出場を目指すお話。全然知らなかったけど、映画にもなっていたそうだ。
十人十色という言葉通り、個性のあるキャラクターが仲間と走ることで自分と向き合っていく姿が目頭を熱くせずには読めない。名作すぎて言葉を選びだすのが難しいのだけど、あえてやろう!
「きみの価値基準はスピードだけなのか。だったら走る意味はない。新幹線に乗れ!飛行機に乗れ!そのほうが速いぞ!」
メンバーのひとりのタイムがなかなか縮まない、練習する意味があるのか?というときに放たれた言葉。
じゃあなぜ走るのか?走ることの意味はなんなのか?というのを物語の進行とともに、それぞれが見つけていくのである。
いかん…言葉を抜きだすのに読み返してまたうるうるしてしまった…

先日も載せたけど、あまりに好きすぎるのでもう1回。積読本があるにも関わらず、もう1回読み返しちゃうくらい好き。
都心から離れた古本屋さん、古い日本家屋、そして本に魅せられた主人公たち。うおー、設定がプライスレスー!
若い主人公たちが過去とお互いの本当の気持ちを知ることにおびえながらもそれを乗り越えようとしていく姿がよいです。
強いて自分に言いきかせながら、真志喜はどこかで気づいてもいた。瀬名垣に「負い目」などで自分に縛られてほしくない、と思う反面、「もう私から自由になってもいいんだ」とは決して告げようとしない、臆病で利己的な心の襞を。
こういう、大事な人に対して抱いているんだけど、心の中に閉じ込めている気持ちっていろいろあるよなあ…と思い、この言葉を選んでみた。
そう、まさに「臆病で利己的」で、大事な相手との関係を継続させるために乗り越えるべきものを先送りしてしまうことってあるある。

ある島に伝わるお祭りに参加するために帰省した高校生の主人公と幼なじみのお話。
島がいやであまり近づきたくない主人公が、島に残った幼なじみとの昔と変わらない友情や、不思議な冒険の中で、故郷について、自分の将来について考えていく。
地方出身のわたしとしては共感したり、ああ、若いのう、とにやにやしてしまったりであった。
「逃げだしたい場所があって、でもそこにはいつまでも待っててくれる人がいる。その二つの条件があって初めて、人はそこから逃れることに自由を感じられるんだ」
「自由」と「孤独」の差について話しているシーン。うーん、深い。
確かに、ひとりになるという状況を選びとることができないのであれば、自由ではなくて孤独なのかもしれない。

主人公が翻訳するロマンス小説と、現実の恋愛話が並行で進む物語。
彼氏が突然仕事を辞めてしまって、今後どうなるの!という主人公の不安や信念が翻訳する小説に表れてきてしまうという展開が斬新。
垣間見える主人公の悩みは女性なら割と一般的なものではないだろうか。昔はこういうので考え込んじゃったなあー。
今や主夫と暮らすわたしは「だいじょうぶ、だいじょうぶ、なんとかなるってー」とへらへらしてしまうのであるが。
愛の言葉は万能の呪文にはならない。たとえ、愛を実感できる出来事と言葉があったとしても、そんなのは瞬間の高揚をもたらすだけだ。そこから気持ちを持続させていくのがどんなに大変かわかっているから、ときに言葉はなおざりにされる。怯えてためらって諦めて、私たちは言葉を出し惜しみする。
選んでみて思ったのだが、『月魚』の言葉に近いかな。
わたしはどうやら、「なぜ人は言葉を出し惜しみしてすれ違うのか」というところに興味があるようだ。
言わないことで自分の中に押し込められた感情はなかなか昇華しないということはわかっているんだけどねえ。人間関係ムズカシイ。


三浦さんのデビュー作。本人の就職活動の経験を元にしたお話だそうで、就職活動への強烈な皮肉が込められていると思うのだけど、どうだろう。
わたしはあまり就職活動を真剣にやっていないので、これは実話なのかな…と思わせる雑学試験とか、面接のエピソードがちょっと怖い。(SPIはやった)
「『友達は人間に対する最高の尊称』ってのは、本当だな」
ほんとほんと!同意!これは割と新しい著作の『むかしのはなし』にも同じようなくだりがあったので、デビュー当時から変わらぬ著者の考えに触れたような気分になった。

これはなんと、ニューヨークマラソンのお話なのだ。うおー!昨年、ニューヨークマラソンを観戦したわたしにはぴったりなお話じゃないかー!と大興奮。(過去記事)
三浦さんが切り取ったニューヨークの街の雰囲気を伝える文章に、いつも見ている景色を明文化してもらった!という感動が生まれたのであった。ちなみに短編である。
「俺はな、努力の効果を信じてるやつには、あんまり興味ない(中略) そういうやつは、思う存分がんばればいいと思うよ。止めやしない。だけど、努力してもかなわないことってあるなと身をもって知ることから、はじめて本当にスタートできるんじゃないのか。どうしてうまくいかなかったんだろうとか、じゃあほかになにができるだろうとか、考えることではじめて、さ」
短編なのにこんな名言が出てきてしまうのである…恐ろしい…
「努力」って、自分をごまかすための手段なんじゃないかなあと思うことがある。そして、報われない努力は時として他人を責めるものにもなる。「自分はこんなにがんばってるのに」ってやつだ。
何か目標をもったり、それに向けて邁進するのはいいけれど、やり方はひとつじゃないよね、と思う。


幼なじみのおじいさんふたりが東京の下町で繰り広げる物語。銀行員だった政さんは常識人、職人の源さんは型破りなおじいちゃん。
なぜか読む前は勝手に江戸時代の話だと思い込んでた…たぶん渋い表示のせいだと思う。
うわー!今表紙を見返して気づいた。これは作品中に出て来るあれですねー!うわー!
「晩年が近づくにつれ、ボタンのかけちがいが大きくなったというだけだ」
「最悪じゃねえか。早くボタンを留め直せよ」
「老眼で、気づいたら手もとがよく見えなくなっていたんだ!」
これまた人間関係のすれ違いについての言葉なのだけど、「老眼で」とか、おじいさん同士だからできる会話の妙!くすりと笑わせながら本質を鋭く突く言葉である。
とりあえず、日本に帰って浅草あたりに行きたくなった。はー。隅田川眺めるとかもいいなー。

直木賞受賞作品。三浦さんの作品の中ではややハードボイルド?読むと舞台である町田に行ってみたくなる。(1度しか降りたことがない)
主人公と突然転がり込んできた居候での中年男二人暮らしは、やりあいながらもそれぞれの存在がなんだかんだで支えになっているように見えて微笑ましい。
人間ってやっぱりひとりより複数でいた方がいいのかなあと思わされる。
多田はあまり気乗りがしなかった。夫のことを「主人」と称する女が、多田は基本的に苦手だ。つまり、既婚女性のうちの大多数を、多田は苦手としていた。(中略) 多田はもちろん、書類に自分の名前ではなく夫の名前を書く女も苦手だった。
ふふふ…わかる、わかるぞ。
三浦さんの本にたまに出てくる「腹黒女子がにやにやしちゃう皮肉っぽい言葉」が好きである。
ついでに言うと、わたしはクッ○パッドとかによくある「○○ママ」というハンドルネームとかも苦手ですよ。え?三十路半ば子なし女のひがみだって?はっはっは。
…おっと、あんまり腹黒いところをお見せしないように、次。


まほろ駅前シリーズの続編。いやーもう、行天が松田龍平さんって、はまり役すぎる!はい、大好きです。
前作で出てきたお客さんが中心となるエピソードが多くて、前作ではただの脇役(すみません)だった人たちにスポットライトを当てることで、「たくさんの人が、本当にいろんなことを考えて日々生きているんだなあ」ということに思いを馳せさせる。
金額や周囲の評価やプライド以外に、愛を計る基準があるだろうか。
もしだれかを見くびり、下に据えるような振る舞いができるなら、多田も助手ももうちょっと生きやすかったかもしれないのにと思ったほどだ。
人間関係になんらかの序列をつけることは、コミュニケーションの潤滑油にもなる。
しかし、人との関係を深めるためには、本当は手探りでその人というものを知って行く必要があるのに、序列によって踏み込めないことがあったり、最初からある程度の関係でいいや、と諦めてしまうことがあるような気がする。
ちょっと話はそれるが、この前「日本はそうじゃないけど、アメリカではみんなが平等ですから!」とエグゼクティブの人が言っていて、歯がゆい気持ちになったことを思い出した。そんなにものごとは単純じゃないだろう。


ど田舎で「斜陽産業」である林業に、本人との意思とは無関係に放り込まれる少年の話。
主人公がちょっとずつ成長していく姿も書かれているけれど、林業や、村の営みについてのお話が中心。
主人公がこっそり書いている記録、という設定なので表現はカジュアルなんだけど、古くからある日本語も織り交ぜながら情景がちゃんと伝わってくる描写はさすがとか言いようがない。
誕生日の数だけ、命日は用意されている。ぼんやりしている暇はないんだ。
名言!と思うのだけど、主人公がこう思ったきっかけというのが、大したことない…と言ったら失礼かもしれないけど、若者ならではの衝動だったりするので、大仰な言葉がおかしい。
もうすっかり三浦さんのファンなので、こういうキャラクターや物語によってご自身の特徴である豊富な語彙力を後ろにのぞかせながら、柔軟に言葉遣いを操るさまをにやにやしながら眺めてしまうのである。

『神去なあなあ日常』の続編。今作は林業よりも、その村に住む人たちの生活に焦点を当てているところが、主人公が村に慣れてきた感じがしてなんとも感慨深い。はい、感情移入しすぎてすっかり保護者の視点である…
明日も明後日も百年後も、きっと人々は幸せに暮らすにちがいないと、楽天的な希望がすりこまれていて、そこに向かって毎日を生きようとする力が備わってる。だから、なにかの原因で信頼や愛を見失ってしまったり、自暴自棄になってしまったりしているひとを見ると、胸が痛いような気持ちになる。
まったくだ。きっと明日にはいいことがあると思うし、多分それは現実になるであろうとわたしも信じている。
世の中今後どうなっちゃうんだろうって心配する気持ちはわかるけど、それでもいいことはあるだろうし、悲観的になりすぎず、前に進まなきゃねえ。

むかしのはなし
前に進まなきゃ、ということでこの本。読後に「すごい本を読んでしまった…」と虚脱と高揚が一緒にやってきたような、不思議な感覚に陥った。
一見すると短編集に見えるのだけど、それぞれの物語があるできごとでつながっている。そのできごとに対して、さまざまな登場人物たちがどう向き合うのかというところにいちいち考えさせられる。
今見たらAmazonのあらすじにはその「できごと」が書いてあるんだけど、わたしは知らずに読んで衝撃を受けたのであった。
ちょっとSFっぽい、現実離れしているようなんだけど、「ありえるかもな」と思わせる筆はさすがである。
俺には友人がいない。こんな仕事だから、腹を割って話をする相手なんて、いると困るんだ。(中略) つきあう女は、交換可能だからいい。つきあっているあいだも、自分の社会的な立場については適当にごまかすことができる。早い話が、会話をしなくても満足する手段はほかにある、ってことだ。だが、友だちとなると話は別だ。
わたしは「恋愛」と「友達」が一緒くたになる存在がいると思うけど、それにしてもこの言葉にうわーっと視界が広がった。
だめになってしまったと恋の相手との関係は、
(1)最初から「恋愛」要素ばかりで「友達」要素が足りなかった
(2)最初は「友達」要素にあふれていたのに、なんらかのすれ違いで「友達」要素が足りなくなった
のふたつに分かれるんじゃないだろうか。
ここでの「友達」は「同志」のようなものと考えている。
さらに言うと、「同志」ってなかなか出会うの難しいと思う。異性だったりすると「恋愛」との区別もつけづらいし。
ああ…すばらしい文章に出会ってしまった。


あと外せないこちら!
Kindleでは出ていないのだけど、以前日本に帰ったとき、飛行機の中で映画がやっていて、まんまとはまって本屋さんに駆け込んで求め、帰りの飛行機の中で読み終えてしまったのであった。家に帰ってからもう1回読んだ。
「話しあったのですが、互いに邪魔されたくないものがあるからこそ、俺たちはうまくいくのではないかと、そういう結論に達しました」
邪魔されたくないもの、打ち込めるものがある者同士は一緒にいて心地よいと思う。
相手と一緒にいることだけが関係の中心にならないからかもしれないし、打ち込んでいるものに対する相手の姿勢に刺激を受けるというのもあるのかもしれない。
とにかくこの本は言葉にあふれていて、本好き、辞書好きな人はにやにやしてしまうことうけあい。


◆◆◆

豊富な著作を紹介していたら、案の定長くなった。
エッセイの紹介は次回に譲りたい。
エッセイも鋭い観察の結果をユーモアあふれる言葉で彩っていて、面白いですよーぐふふー。


(2014/2/9追記)
エッセイ編書きました!こちら

2014-02-01

ニューヨークへ来て1年が過ぎた

今週末は旧正月。チャイナタウンは大盛り上がりだった。

気づいたらニューヨークへ来て1年が過ぎていた。
別に忙殺されるほどでもなく、ごろごろ引きこもっていただけなのに(だからか?)、あっという間の1年だった。
さらに、もう2014年になって、12分の1が経過していた。
今更感があるけれど、この1年の振り返りと、2014年の抱負などを書いてみたいと思う。
…旧正月新年だからいいよね!

◆◆ 1年の振り返り ◆◆

(1)世界はモザイクだ
そんなに数は多くないけれど、いろいろな人生を送ってきたいろんな国の人に出会えることができたのは、視野を広げることや、自分の特徴の把握にとても役に立った。
例えば、
映画を作りたいという夢を持って仕事を辞めて日本から来た若者だとか、
自分の子供が英語しか喋れなくて意思疎通ができないから英語を習うメキシコ人のお母さんだとか、
国の政策や、大気汚染のせいで子育てに支障がでるという判断をして中国からニューヨークにやってきた夫婦だとか、
「なんで世間の人はみんなベジタリアンじゃないのか」と考えているスペイン人の大学生だとか(生ハムの国ですよ!)、
ひとりひとりとの出会いが、とても印象的だった。
だからなのか、「日本人は○○だ」、「あの国は○○だ」みたいな、大きすぎる「断定」には以前よりもさらに違和感を覚えるようになった。これは差別にうるさいアメリカに住んでいるからという部分もあるかもしれない。ユーモアがあるものならいいんだけどねえ。

(2)ユートピアはない
ニューヨークはわたしにとって桃源郷じゃなかった。
そんなに潔癖じゃないわたしからしても街は汚いし、特に夏は臭いし、物価は高くて格差は激しいし、ほいほい買ってぽいぽい捨てる「消費バンザイ!」な雰囲気は刹那的でサステナブルじゃない。「MOTTAINAIは世界を救う」というステッカーを街にぺたぺたはりたい。
でも、いろんな国の食べ物が食べられたり、いろんな人に出会えたり、美術館や演劇のような文化を気軽に楽しめるのはとてもいいところだと思う。
一歩下がったところで愛する日本を観察できたのはすごくよかった。日本はやっぱりきれいだし、ごはんおいしいし、人は優しいし、物価や税金はそんなに高くないし、保険も年金も国と企業ががっつり運営してくれてて最高(もらえるかとかいう問題は置いておきましょう)。
東京は通勤大変だし、長時間労働がいやだし、終身雇用は善し悪しだし、差別的考えを平気で大声で叫ぶ人がいるのがうざいけど。
結局、ユートピアはなくて、限られた選択肢の中から、「そのとき自分が一番合う場所に住む」というのが当たり前だけど答えなんじゃないだろうか。
…という考察の結果、ニューヨークに住みながら、「日本の地方都市最強なんじゃない…?」という結論に達しそうになったりしている。
(過去記事『今、日本の地方都市がアツイ』)

(3)気の合う友達・家族は宝物
色々な考えを聞いたり、文化を経験するのは楽しいのだが、そうこうしている間に「一緒にいて安らぐ相手」というのが明確になる。
超いい人でも「和食嫌い。魚介類ありえない」っていう人や、「アメリカ(日本)至上主義!」を唱えている人、「若い女最高」と公言している人とは、たまにならいいけど、頻繁にご飯を食べに行きたいと思えない。(心が狭くてすみません)
わたしの場合、安らぐ相手はわたしが考えたことに対して聞く耳を持ってくれて、自分の経験や知識、研ぎすまされた勘から自分の考えやそれに至った経緯を素直に述べてくれる人である。
この1年、そういう人たちにはすごく助けられたので、わたしも周りの人に少し役立つ人間になれたらなーとぼんやり思っている。

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ここまでここ1年の振り返り。
ということで、2014年の抱負などを恥ずかしながら書いておきたいと思う。

◆◆ 2014年の抱負 ◆◆

(1)わからないことを流さない
わたしはわからないこと、考えるのが大変そうなことをスルーしがち。
なので、わからないことはきちんとわからないと言って、いろんなことを知ることができるといいなあと思っている。

(2)いつでもユーモアを忘れない
納得できないこととか、おかしいなあと思うことに出会ったときに、頭ごなしに批判をするのではなくて、とんちの利いた返しができるようになりたい。
語彙がないし、直情的なので難しいんだけど、できごとをこねくり回して面白く考えられればいいなあ。

(3)「めんどくさい」ことを避けない
最後はちょっと悩んだんだけどこれ。めんどくさいこととやりたくないことは違うと思う。
わたしがめんどくさがるのは物をすぐに片付けるとか、必要なときにあまり親しくない人に話しかけるとか、人と議論することとか、その辺である。
やりたくないことというのは夜遅くまで働くとか、気合に任せて何かをすること。(ほんと脱力系だ)
なので、引き続きやりたくないことは積極的に避け、めんどくさいことはちょっとずつやっていけるようにしようと思う。

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しかし日本にいたときは「新年」の到来をある程度厳かに受け止めていたのであるが、今年はニューヨークで引きこもっていたからか、あまり新年感がない。
初詣に行って、お雑煮食べて、つまらないテレビを冷やかして、ごろごろするっていうのは、気持ちを新たに何かを始めるのに大切な儀式なのかもしれない。そのくらいわたしにしみ込んでいるのかな…
ともあれ、チャイナタウンで旧正月を味わったので、今日からわたしの2014年ということにしよう。


ちなみに2013年の抱負はこんなんでした。(過去記事)

(1)人と自分を比べて、うらやましがらない、落ち込まない。
(2)お風呂に入らずに寝ない。
(3)ブログを1週間以上放置しない。

…うーん、お風呂以外はあまりできなかったような気もするけど、意識的になれた点ではよかったかもなあ。