2014-02-08

三浦しをんさん本、全制覇計画(小説編)

先日の角川セール(過去記事)でたっぷり本を買い込んだわたしだが、その中ですっかり三浦しをんさんの本にはまってしまった。
30冊を超える角川本のストックをとりあえず頭の片隅に追いやって(一時的積読)、三浦さんの本を買う。読む。買う。読む。

…気づいたらKindleで買える本をコンプリートしていた。

三浦さんの本には、物事の考え方や、見方に対するはっとさせられる言葉がちりばめられている。今日は各本とその中の珠玉の言葉をひとつだけ抜き出して紹介したい。
あ、ちなみにわたしのとっての珠玉の言葉とは、「名言」なだけでなく、その場の状況が生々しく伝わってくる描写だったり、わかるわかると同意してしまうような心理だったり、そういう言葉も含むので、肩すかしだったらごめんなさい。…と逃げ道を作っておく。

ちなみにわたしのKindleに入っている三浦さんの本は17冊。
さすがに一度に全部を載せると大変な長さになるので、今日は小説のみ紹介したい。

◆◆◆

大学生10人が箱根駅伝出場を目指すお話。全然知らなかったけど、映画にもなっていたそうだ。
十人十色という言葉通り、個性のあるキャラクターが仲間と走ることで自分と向き合っていく姿が目頭を熱くせずには読めない。名作すぎて言葉を選びだすのが難しいのだけど、あえてやろう!
「きみの価値基準はスピードだけなのか。だったら走る意味はない。新幹線に乗れ!飛行機に乗れ!そのほうが速いぞ!」
メンバーのひとりのタイムがなかなか縮まない、練習する意味があるのか?というときに放たれた言葉。
じゃあなぜ走るのか?走ることの意味はなんなのか?というのを物語の進行とともに、それぞれが見つけていくのである。
いかん…言葉を抜きだすのに読み返してまたうるうるしてしまった…

先日も載せたけど、あまりに好きすぎるのでもう1回。積読本があるにも関わらず、もう1回読み返しちゃうくらい好き。
都心から離れた古本屋さん、古い日本家屋、そして本に魅せられた主人公たち。うおー、設定がプライスレスー!
若い主人公たちが過去とお互いの本当の気持ちを知ることにおびえながらもそれを乗り越えようとしていく姿がよいです。
強いて自分に言いきかせながら、真志喜はどこかで気づいてもいた。瀬名垣に「負い目」などで自分に縛られてほしくない、と思う反面、「もう私から自由になってもいいんだ」とは決して告げようとしない、臆病で利己的な心の襞を。
こういう、大事な人に対して抱いているんだけど、心の中に閉じ込めている気持ちっていろいろあるよなあ…と思い、この言葉を選んでみた。
そう、まさに「臆病で利己的」で、大事な相手との関係を継続させるために乗り越えるべきものを先送りしてしまうことってあるある。

ある島に伝わるお祭りに参加するために帰省した高校生の主人公と幼なじみのお話。
島がいやであまり近づきたくない主人公が、島に残った幼なじみとの昔と変わらない友情や、不思議な冒険の中で、故郷について、自分の将来について考えていく。
地方出身のわたしとしては共感したり、ああ、若いのう、とにやにやしてしまったりであった。
「逃げだしたい場所があって、でもそこにはいつまでも待っててくれる人がいる。その二つの条件があって初めて、人はそこから逃れることに自由を感じられるんだ」
「自由」と「孤独」の差について話しているシーン。うーん、深い。
確かに、ひとりになるという状況を選びとることができないのであれば、自由ではなくて孤独なのかもしれない。

主人公が翻訳するロマンス小説と、現実の恋愛話が並行で進む物語。
彼氏が突然仕事を辞めてしまって、今後どうなるの!という主人公の不安や信念が翻訳する小説に表れてきてしまうという展開が斬新。
垣間見える主人公の悩みは女性なら割と一般的なものではないだろうか。昔はこういうので考え込んじゃったなあー。
今や主夫と暮らすわたしは「だいじょうぶ、だいじょうぶ、なんとかなるってー」とへらへらしてしまうのであるが。
愛の言葉は万能の呪文にはならない。たとえ、愛を実感できる出来事と言葉があったとしても、そんなのは瞬間の高揚をもたらすだけだ。そこから気持ちを持続させていくのがどんなに大変かわかっているから、ときに言葉はなおざりにされる。怯えてためらって諦めて、私たちは言葉を出し惜しみする。
選んでみて思ったのだが、『月魚』の言葉に近いかな。
わたしはどうやら、「なぜ人は言葉を出し惜しみしてすれ違うのか」というところに興味があるようだ。
言わないことで自分の中に押し込められた感情はなかなか昇華しないということはわかっているんだけどねえ。人間関係ムズカシイ。


三浦さんのデビュー作。本人の就職活動の経験を元にしたお話だそうで、就職活動への強烈な皮肉が込められていると思うのだけど、どうだろう。
わたしはあまり就職活動を真剣にやっていないので、これは実話なのかな…と思わせる雑学試験とか、面接のエピソードがちょっと怖い。(SPIはやった)
「『友達は人間に対する最高の尊称』ってのは、本当だな」
ほんとほんと!同意!これは割と新しい著作の『むかしのはなし』にも同じようなくだりがあったので、デビュー当時から変わらぬ著者の考えに触れたような気分になった。

これはなんと、ニューヨークマラソンのお話なのだ。うおー!昨年、ニューヨークマラソンを観戦したわたしにはぴったりなお話じゃないかー!と大興奮。(過去記事)
三浦さんが切り取ったニューヨークの街の雰囲気を伝える文章に、いつも見ている景色を明文化してもらった!という感動が生まれたのであった。ちなみに短編である。
「俺はな、努力の効果を信じてるやつには、あんまり興味ない(中略) そういうやつは、思う存分がんばればいいと思うよ。止めやしない。だけど、努力してもかなわないことってあるなと身をもって知ることから、はじめて本当にスタートできるんじゃないのか。どうしてうまくいかなかったんだろうとか、じゃあほかになにができるだろうとか、考えることではじめて、さ」
短編なのにこんな名言が出てきてしまうのである…恐ろしい…
「努力」って、自分をごまかすための手段なんじゃないかなあと思うことがある。そして、報われない努力は時として他人を責めるものにもなる。「自分はこんなにがんばってるのに」ってやつだ。
何か目標をもったり、それに向けて邁進するのはいいけれど、やり方はひとつじゃないよね、と思う。


幼なじみのおじいさんふたりが東京の下町で繰り広げる物語。銀行員だった政さんは常識人、職人の源さんは型破りなおじいちゃん。
なぜか読む前は勝手に江戸時代の話だと思い込んでた…たぶん渋い表示のせいだと思う。
うわー!今表紙を見返して気づいた。これは作品中に出て来るあれですねー!うわー!
「晩年が近づくにつれ、ボタンのかけちがいが大きくなったというだけだ」
「最悪じゃねえか。早くボタンを留め直せよ」
「老眼で、気づいたら手もとがよく見えなくなっていたんだ!」
これまた人間関係のすれ違いについての言葉なのだけど、「老眼で」とか、おじいさん同士だからできる会話の妙!くすりと笑わせながら本質を鋭く突く言葉である。
とりあえず、日本に帰って浅草あたりに行きたくなった。はー。隅田川眺めるとかもいいなー。

直木賞受賞作品。三浦さんの作品の中ではややハードボイルド?読むと舞台である町田に行ってみたくなる。(1度しか降りたことがない)
主人公と突然転がり込んできた居候での中年男二人暮らしは、やりあいながらもそれぞれの存在がなんだかんだで支えになっているように見えて微笑ましい。
人間ってやっぱりひとりより複数でいた方がいいのかなあと思わされる。
多田はあまり気乗りがしなかった。夫のことを「主人」と称する女が、多田は基本的に苦手だ。つまり、既婚女性のうちの大多数を、多田は苦手としていた。(中略) 多田はもちろん、書類に自分の名前ではなく夫の名前を書く女も苦手だった。
ふふふ…わかる、わかるぞ。
三浦さんの本にたまに出てくる「腹黒女子がにやにやしちゃう皮肉っぽい言葉」が好きである。
ついでに言うと、わたしはクッ○パッドとかによくある「○○ママ」というハンドルネームとかも苦手ですよ。え?三十路半ば子なし女のひがみだって?はっはっは。
…おっと、あんまり腹黒いところをお見せしないように、次。


まほろ駅前シリーズの続編。いやーもう、行天が松田龍平さんって、はまり役すぎる!はい、大好きです。
前作で出てきたお客さんが中心となるエピソードが多くて、前作ではただの脇役(すみません)だった人たちにスポットライトを当てることで、「たくさんの人が、本当にいろんなことを考えて日々生きているんだなあ」ということに思いを馳せさせる。
金額や周囲の評価やプライド以外に、愛を計る基準があるだろうか。
もしだれかを見くびり、下に据えるような振る舞いができるなら、多田も助手ももうちょっと生きやすかったかもしれないのにと思ったほどだ。
人間関係になんらかの序列をつけることは、コミュニケーションの潤滑油にもなる。
しかし、人との関係を深めるためには、本当は手探りでその人というものを知って行く必要があるのに、序列によって踏み込めないことがあったり、最初からある程度の関係でいいや、と諦めてしまうことがあるような気がする。
ちょっと話はそれるが、この前「日本はそうじゃないけど、アメリカではみんなが平等ですから!」とエグゼクティブの人が言っていて、歯がゆい気持ちになったことを思い出した。そんなにものごとは単純じゃないだろう。


ど田舎で「斜陽産業」である林業に、本人との意思とは無関係に放り込まれる少年の話。
主人公がちょっとずつ成長していく姿も書かれているけれど、林業や、村の営みについてのお話が中心。
主人公がこっそり書いている記録、という設定なので表現はカジュアルなんだけど、古くからある日本語も織り交ぜながら情景がちゃんと伝わってくる描写はさすがとか言いようがない。
誕生日の数だけ、命日は用意されている。ぼんやりしている暇はないんだ。
名言!と思うのだけど、主人公がこう思ったきっかけというのが、大したことない…と言ったら失礼かもしれないけど、若者ならではの衝動だったりするので、大仰な言葉がおかしい。
もうすっかり三浦さんのファンなので、こういうキャラクターや物語によってご自身の特徴である豊富な語彙力を後ろにのぞかせながら、柔軟に言葉遣いを操るさまをにやにやしながら眺めてしまうのである。

『神去なあなあ日常』の続編。今作は林業よりも、その村に住む人たちの生活に焦点を当てているところが、主人公が村に慣れてきた感じがしてなんとも感慨深い。はい、感情移入しすぎてすっかり保護者の視点である…
明日も明後日も百年後も、きっと人々は幸せに暮らすにちがいないと、楽天的な希望がすりこまれていて、そこに向かって毎日を生きようとする力が備わってる。だから、なにかの原因で信頼や愛を見失ってしまったり、自暴自棄になってしまったりしているひとを見ると、胸が痛いような気持ちになる。
まったくだ。きっと明日にはいいことがあると思うし、多分それは現実になるであろうとわたしも信じている。
世の中今後どうなっちゃうんだろうって心配する気持ちはわかるけど、それでもいいことはあるだろうし、悲観的になりすぎず、前に進まなきゃねえ。

むかしのはなし
前に進まなきゃ、ということでこの本。読後に「すごい本を読んでしまった…」と虚脱と高揚が一緒にやってきたような、不思議な感覚に陥った。
一見すると短編集に見えるのだけど、それぞれの物語があるできごとでつながっている。そのできごとに対して、さまざまな登場人物たちがどう向き合うのかというところにいちいち考えさせられる。
今見たらAmazonのあらすじにはその「できごと」が書いてあるんだけど、わたしは知らずに読んで衝撃を受けたのであった。
ちょっとSFっぽい、現実離れしているようなんだけど、「ありえるかもな」と思わせる筆はさすがである。
俺には友人がいない。こんな仕事だから、腹を割って話をする相手なんて、いると困るんだ。(中略) つきあう女は、交換可能だからいい。つきあっているあいだも、自分の社会的な立場については適当にごまかすことができる。早い話が、会話をしなくても満足する手段はほかにある、ってことだ。だが、友だちとなると話は別だ。
わたしは「恋愛」と「友達」が一緒くたになる存在がいると思うけど、それにしてもこの言葉にうわーっと視界が広がった。
だめになってしまったと恋の相手との関係は、
(1)最初から「恋愛」要素ばかりで「友達」要素が足りなかった
(2)最初は「友達」要素にあふれていたのに、なんらかのすれ違いで「友達」要素が足りなくなった
のふたつに分かれるんじゃないだろうか。
ここでの「友達」は「同志」のようなものと考えている。
さらに言うと、「同志」ってなかなか出会うの難しいと思う。異性だったりすると「恋愛」との区別もつけづらいし。
ああ…すばらしい文章に出会ってしまった。


あと外せないこちら!
Kindleでは出ていないのだけど、以前日本に帰ったとき、飛行機の中で映画がやっていて、まんまとはまって本屋さんに駆け込んで求め、帰りの飛行機の中で読み終えてしまったのであった。家に帰ってからもう1回読んだ。
「話しあったのですが、互いに邪魔されたくないものがあるからこそ、俺たちはうまくいくのではないかと、そういう結論に達しました」
邪魔されたくないもの、打ち込めるものがある者同士は一緒にいて心地よいと思う。
相手と一緒にいることだけが関係の中心にならないからかもしれないし、打ち込んでいるものに対する相手の姿勢に刺激を受けるというのもあるのかもしれない。
とにかくこの本は言葉にあふれていて、本好き、辞書好きな人はにやにやしてしまうことうけあい。


◆◆◆

豊富な著作を紹介していたら、案の定長くなった。
エッセイの紹介は次回に譲りたい。
エッセイも鋭い観察の結果をユーモアあふれる言葉で彩っていて、面白いですよーぐふふー。


(2014/2/9追記)
エッセイ編書きました!こちら

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