先日の小説編(こちら)に続き、今日は三浦しをんさんのエッセイを紹介したい。
エッセイって久しぶりに読んだのだけど、小説も含めて一気に読むと、「ああ、これは作者の信念みたいなものなのねー」というのが透けて見えてきて楽しい。
前回同様、それぞれの著作から言葉をひとつだけ抜き出そう。「ひとつだけ」ってほんと苦しい…
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様々な職業の人に著者がインタビューしたものをまとめた本。エッセイって久しぶりに読んだのだけど、小説も含めて一気に読むと、「ああ、これは作者の信念みたいなものなのねー」というのが透けて見えてきて楽しい。
前回同様、それぞれの著作から言葉をひとつだけ抜き出そう。「ひとつだけ」ってほんと苦しい…
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おみやげ屋さんとか、動物園の飼育員さんとか、編集者さんとか、職業として存在は知っているけれど、実際どういう生活を送っているのか気になる!という人の話がたくさんあって楽しい。しかも全部女性。
仕事に打ちこむ理由の根底には、「自分という存在を証したい」「だれかとつながりたい」といった思いがあるのではないか。その思いの表れかたや実現の方法はさまざまだから、「こうすれば効率がいいですよ」と画一的に提示できるものではない。世の中にはいやいや、仕方なく働いているっていう人もいるだろう。
でもなんというか、特に日本の人たちの働き方を見ていると、単なる「お金のため」という目的を超えた情熱だったり、責任感だったりを感じることが多い。
以前読んだ本で、フランスのホームレスの人に何が欲しいか?と聞くと「食べ物」と答えるのだが、日本のホームレスの人に同じ質問を投げかけると「仕事」と答えるというのを見た。(この本なので興味があればどうぞ)
そういう人たちの熱心さは、責任感が強すぎて自分を傷つけてしまうこともあるけれど、いいところだよなあって思うのである。
あんまり仕事命になりすぎちゃって家庭を顧みない人がいることはあまりよくないけど、結局そこまで打ち込むのって、「自分が何かを残したい」「認められたい」という、人間の奥深くにある欲求がそうさせてるんじゃないかなあと思うのであった。
作者の妄想が笑えるもの、観察力に感嘆させられるものなどなど、いろんな小話が入っていて楽しい。これはどのエッセイにも言えるのだけど、読みながら数回声を上げて爆笑した。
三浦さんはちょっと変わった名前のせいで小さい頃からめんどくさい経験をしてきたそうで、その経験を元に名付けの注意点を述べている。
一、平凡な顔、特技なし、の人間が大半です。あなたの子供も確率的にいって、たぶん平凡です。あまり凝った名前はやめましょう。生きるのがつらいです。ああ、キラキラネーム反対派に代わって作者が言ってくれました。
二、当て字は避けましょう。(中略) 意味を持たせた漢字にすべきです。
三、誰かに聞かれた時に子供が答えやすいような由来を、ちゃんと考えておいてあげましょう。小学校という恐怖の教育機関が、お子さんを待ち受けていることをお忘れなく。
確かに、名前の由来って小学校で聞かれるよねえ。そのときに理由が答えられないと…いや、今はココアちゃんとかいっぱいいるみたいだし、大丈夫そう(?)な気がするが。
ところで、今月生まれる予定の弟の娘の名前にひやひやしているわたしである。ココアではないと言ってたけど、大丈夫かなあ。…おっと話がそれました。
これは先日のエントリー、『もぞもぞする日本語』でも紹介した本。
著者の文章力と観察力に支えられた、軽すぎず、重すぎず、なおもしろエッセイ。日々、自分の周りに起こる出来事を観察して、どういう意味を持つのか?というところを妄想を含めていろいろ考えているんだろうなあと想像する。
福山雅治の『東京にもあったんだ』という曲を聴いてもやもやしたという話から。
細かい実態よりも、最大公約数に伝わりやすいイメージのほうを選択するのは、創作物を成り立たせる手法として、大いにありだろう。(中略)何かの実態を細かく描写することが、必ずしも、多くのひとに伝わる表現であることとイコールではない、というのが、創作の難しいところだよなあと、母がうっとり聞いてる福山氏の『東京にもあったんだ』を耳にするたび、つくづく実感されるのだった。歌にあるステレオタイプな「東京」のイメージにもやもやして、この結論に至るという経緯がおもしろい。
ステレオタイプなイメージで自分を断じられると「全然わかってない!」っていう居心地の悪さを感じるのに、自分と直接結びつきがないものとか、どこかで対抗心を抱いているものをステレオタイプに断じてしまうのには気をつけなければいけないなあと思う。
ところで最近、ウェブとかIT系の話をものすごーーーく噛み砕いて話してくれる男性がいたので、思わず「わたし情報工学科卒なんです」って言ったら、「えっ、そうだったんですか」と目を白黒されたあと、その後の会話が途切れたという経験をした。
理系は数が少ないってことはわたしも十分にわかっているつもりだけど、女性は文系で、技術の話がわからないだろう、というイメージが根強いんだろうなあと思ったできごとだった。これもステレオタイプのひとつである。
10年以上も前からこんなにおもしろい著作を出し続けているという作者の溢れる才能に震えそうである。
この本からは、「夫婦別姓ばんざーい!みんなわたしのことは名字(旧姓)で呼べや!」(過去記事)と公言してはばからないわたしのもやもやを明文化してくれたこの言葉を。
だって大臣なんですよ?もしくは犯罪を犯したとして社会的に裁かれようとしている人なのですよ?それなのになんで私的なにおいの強い下の名前で呼ばれないといけないんだろう。私は凶悪犯罪を起こして裁判にかけられたとしても、しをん被告とは呼ばれたくない。他の男性犯罪者の方々と同じように、ミウラ被告と呼んでいただきたいわ。(中略)とにかく、なんで女性の場合には下の名前に「公」のポジションをくっつけて呼ぶことが多いのか、というその根拠を教えてほしいものだ。ぱちぱちぱちぱち!(拍手)
これは田中眞紀子大臣やヒ素カレー事件の林眞須美被告を、下の名前で呼ぶのに違和感を感じた著者の弁である。
本当によくわかる。なんで女だと見ると名前で呼ぶ男の人が多いのか!
…………
わたしの場合は、よく考えたら名字で呼んでくる人ばっかりだった。すみません。自意識過剰ってやつです。
しかし昔から、学校や会社で名字で呼ばれることが多かったわたしは、下の名前で呼ばれる人とは何か根本的に違うものがあるんだろうなあーとぼんやり考えている。
それはきっと、「女として重要」と男性が考えている、その子のかわいらしさとか御しやすさとかなんだろうなあー。あと心を開いてくれていないとかね。
…ううっ、やめよう。もう自分を追いつめるのはこのくらいにしておこう。ひがんでなんかないやい。
「常識」が人々を息苦しくさせ、だれかを排除し差別する構造を生みだしているのなら、いまを生きる私たちは、「常識」を変える努力をしなければならない。「常識を変えるなんて非常識だ」と畏れる必要はない。「常識」が時代とともに変容するものなのは、歴史が証明する事実だ。わたしはいつも、「常識って何?」と思っている。
「常識的に考えて○○だろう」とか、「○○するのが普通」とか、世の中に溢れてるけど、誰が決めたことなんですか?それ法律なんですか?…くそっ、前時代的な法律か、だったら変えてしまえ!「だめならば、変えてしまえよ、法律を!」だ!
…あ、はい。これは夫婦別姓が許されていない件についてです。
常識だー普通だーとが口癖の人がいると、「大丈夫、普通じゃないと思ってるわたしの方が長生きするから」と自分に言い聞かせているわたしである。不謹慎ですみません…
ともあれ、「常識」って不変のものではないし、疑ってかかってもいいと思っている。
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どうやらわたしのKindleの中の三浦さん本は以上のようです。
他にも『天国旅行』とか『きみはポラリス』とか、気になるけど電子書籍になってない本がたくさんあるので、どうかニューヨークでも読めるように全部Kindleにしてください。お願いします!!
祈るような気持ちで、今日もAmazonの「Kindle化リクエスト」のリンクを何度もクリックしてしまうわたしであった。
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