わたしは空気が読めない方だと思う。
何をするにも「なんで?」と感じてしまって、それが例えば「礼儀」や「伝統」と呼ばれるものであっても、自分が納得できないことは受け入れたくない。
例えば、以前にも書いたけれど、結婚式をやる理由や、結婚したら名字をどちらかに合わせる必要性は未だに理解できなくて、いろいろあがいている。(過去記事:『結婚式をやらない理由を書き残す』、『ゆるやかな夫婦別姓に大賛成!』)
いい年して世間の文化に対立するような、痛々しい生き方を地でいくKY(死語)なわたしであるが、英語を使うにあたってはものすごいプレッシャーを感じているんだなあということに気づいた。
そんな風に考えさせるきっかけをくれたのは、どちらもかなり年上のふたりの日本人の方の行動だった。
ひとりの方はある日本企業のトップレベルの人。アメリカの別の企業のトップレベルの人と英語で話しているとき、白黒のことを「モノクロ」と言っているのを聞いた。
も、モノクロって和製英語だよね…!?英語だとmonochromeだよね…!?!?
案の定、言われた方ははてな?という顔をしている。話している日本人の方はそれに気づいているのか、気づいていないのか、とにかく自分の言いたいことをうわーーーっと言っている。
ああ、モノクロってもう3回くらい言ってる…と横で聞いているわたしはひやひやする。しかし、口を挟んでいいものかどうか。空気が読めない社会人代表のわたし、その昔、上司の誤りを大勢の前で直すという失態を犯してしまい、5年以上経った今でも仲間内では語りぐさになっているのである。ちなみに上司はそういうことを気にしない人なので笑っていたし、「そんなに失態かー?」と思っているあたりにわたしの病の深さがある。
話を戻そう。モノクロ何回目だろう…というときに、昔の漫画なら電球がついただろうなあと思うくらいに、聞いていた方がはっとした顔をした。
「Oh, black and white! Yes, yes!!」
通じた!!思わずほっと胸を撫で下ろすわたし。でも話している方は相変わらずモノクロと言い続けている。…まあいいや。
この日本企業トップの方は、とにかく自分の言いたいことを言う。会話の中で、「今の質問そんなこと聞いてたっけ!?」と思うような回答になってない返しもある。でもとにかく「伝える!」という気持ちが強いのである。
もうひとりの方はアメリカに長いこと住んでいて、フリーランスで仕事をされている方。
仕事で知り合った初対面の人に対して、英語のアクセントから判断して、「Are you British?」と聞いている。
国籍っていきなり聞いちゃいけない、っていうどこかで聞きかじった知識が頭の中で警鐘をならす。答えたくない人もいるし、そもそも歴史の中で云々とかよく言いませんっけ!!
そんなわたしの不安を知るわけもなく、聞かれた方は、「そう、ロンドンに住んでる」と答えた。わたしの考え過ぎだったのだろうか。
しかしここで会話は終わらず、その方は「ロンドンって紳士の町だよねー」とか言ってる。えええーー、そのステレオタイプここで出すか!日本は侍の国って言ってるのと同じじゃない!?
さすがにイギリスの方も「いやーそれはだいぶ昔の話だけどね」と苦笑。
相手がどう思っているかはわからないけど、とりあえず会話が終わったときにはちょっと胸を撫で下ろした。
このふたりの方に共通する点。それは
- アメリカに住んで10年以上と長い
- 40代〜50代
- 日本語なまりの英語を躊躇なく話す
という3つである。
日本語なまりの英語というのはだいたいみんなそうだろ!とつっこまれるところかもしれないけれど、彼らが喋る言葉は「和製英語は英語じゃない」とか、「異文化交流でそういうことを言っちゃいけない」とか、「発音をちょっとでも英語っぽくしなきゃいけない」みたいなルールや気負いに縛られていないように感じた。
このルールや気負いはどこから来ているのだろう?と考えると、わたしはいろいろなところから情報を仕入れて、頭でっかちになってしまっているのかもしれないなあ、というところに思い当たった。
本当に、日本には「英語」に関する情報が山ほどあるし、本も基礎的なものからものすごくニッチなものまで、あらゆる分野であふれんばかりに出版されている。Twitterを開いたら英語ご意見番みたいな人もいて、「こんなこと言うやつはおかしい」みたいな持論を展開しているし、日本人の前で英語を使うのって間違いを指摘されたり、笑われたりするんじゃないかと思ってちょっと緊張する。
空気読めないくせに、こういう環境のプレッシャーを感じたわたしは、英語を使うのが怖くなってしまっているんじゃないかなあと思ったのである。使わなきゃ上手にならないのに。
ちなみに他の外国語だと、ここまでプレッシャーがない。まず情報が少ないし、本だって英語に比べたらほんのわずかで選択肢はあまりない。ちょっとできたら「すごい!」って言われるし、間違いをねちねちと指摘する人はあんまりいない。だから使ってみようという気にもなるし、どんどん上手になる。この違いはやっぱり英語が義務教育に組み込まれていて、日本人にとってちょっと別格で、重要な地位にあるからなのだと思う。
以前、外国語を喋るということは、「fluency(流暢さ)」と「accuracy(正確さ)」とのバランスだ、と聞いたことがある。流暢に喋ることと正確さは最初のうちはなかなか両立させられないということだ。某語学スクールのページにも同じようなことが書いてあった。
The Berlitz Method(Berlitz)
わたしは正確さの方にとにかく気が向いてしまっていて、流暢に喋るどころか、口数が少なくなってしまっているんじゃないだろうか。
前述の日本企業の方は、こちらで生まれ育ったバイリンガルの娘さんに「お父さんの英語、恥ずかしいから話さないで」と辛辣な言葉を浴びせられるらしい。そんな評価をされようとも、まずはとにかく喋ってコミュニケーションをとろうとするのはすばらしい姿勢だと言える。そこから始まる相互理解や、得られる知識の可能性は大きいからだ。
英語に限らず、しばらくは考えすぎずに行動してみようかなあ。
こんな思考から始まって、まわりの人のやる気や可能性をそがないような人間になっていきたいなあ、というところまで考えは及ぶのであった。
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