2013-07-02

日本の(英語)教育のいいところを考えてみる

「ここが変だよ、日本の英語教育!」と言わんばかりのブログを、taichinoさんが書いてくれていた。

[アメリカ日記14] 僕が英語話せないのは日本の教育のせい(taichino.com)

うわーーーめっちゃ共感するーーー!と拍手を送りたい気分だったのであるが、どうやら「全部学校教育のせいにするんじゃない!」という意見があるようなので、今日のわたしのブログでは、英語習得に関して日本の教育が優れているところを考えてみたい。
(※余談だけど、taichinoさんはわたしがニューヨークに来てから、社外の人で初めて知り合った日本人の方である。我が家と境遇が似ていて、ランチをしたときには話が尽きなかったーーー)

ちょっと前までわたしはニューヨーク市がやっている無料英会話コースの一番上のクラスに通っていた。ちなみにこのクラス分けの前には筆記試験はなく、会話のテストだけだったので、「会話ができる」と判断された人がこのクラスに来ている。無料コースなので、来ている人の層はtaichinoさんが行かれていたコロンビアのコースとは違うと思うけど、さまざまな国の人たちと比べて、日本の教育のここはすごいんじゃない?と思うところを書きたい。
ちなみにご参考までに、わたしの英語力はこんなかんじである。→『TOEIC900点の世界(一例)』

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(1)スペリング・語彙力が強い
メキシコ人の子が、「ファミリーってどういうスペルだっけ?」と聞いてきたときはちょっとびっくりした。多分日本人で中高と英語をきちんと勉強していた人で、familyのスペルが書けない人はほとんどいないと思う。これはこの人だけの問題なのかな・・・・と思ったんだけど、クラスの中の中南米の人たちは喋れてもスペルが苦手な人が多かったので、逆に考えると日本の教育はすごいのかもしれない。
あと、これは英語に限った話ではなく、教育や社会全体としての話であるが、「narcissism」を「それは何?」と聞かれたときに、知識を必要とする語彙も日本人は多く持っているのかもなと感じた。
カタカナ語は弊害もあるけど、たくさんの英語から輸入された言葉や概念によって日本人の知識や思考能力は底上げされていると思う。


(2)文法もやたら強い
あるとき、「hardlyは形容詞か、副詞か?」という問題を先生が出した。
間違えようがないでしょう!と思ったんだけど、なんとクラスでは副詞は少数派。わたしを含めてセネガル人、中国人、ブラジル人の4人のみ。残りの中南米組、ドミニカやメキシコ、アルバニア、南アフリカから来た10人くらいの人たちは形容詞と答えたのである。
形容詞、副詞、という文章を形成する概念をきちんと理解しているかどうかは英語教育だけではなく、母国語も含めた教育レベルの問題もあるかもしれない。先生がかなり丁寧に説明しても、副詞という概念を理解するのに苦しんでいる人が多かった。
他にもびっくりしたのは、I, My, Me, Mineみたいな主格、所有格、目的格、所有代名詞がごっちゃになる人がいたこと。I gave her itみたいな文章の「her」が「she」になっちゃたりするのである。これも日本人だとあまりいないのではないだろうか。


(3)学ぶことに対してまじめ
これも英語教育に限らずの項目だけど、わたしが通っていたクラスでは、言われた宿題やってこないとか当たり前、勉強に来ているのにノートも持ってこない人とかいるのである。
さらに、授業の最中に先生が「今は人の意見をちゃんと聞きましょう」って言ってても話し出したり質問したりする人もいれば、無料だからといって途中でレッスンに来なくなる人もいる。かと思えば「早く上手になる方法はなんだ」とか言い出す。なんだろうこの違和感・・・・自己啓発本を読みまくって近道を探しながら、毎日夜更かしして寝坊してずーっと眠い状態で何もやる気がおきない、みたいな感じである。
日本の情操教育ってなんでも一律、従順さを鍛えられているようで気持ち悪いところもあるけど、短時間で何かを学習するのに適した集中の方法を教えているのかもしれないなあ、と感じた。

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(1)、(2)を見ると、学校の英語教育では英語を学問として「勉強」している気がする。
どちらかというと算数より数学というか。普段の生活に難しいことは必要なくって、加減乗除ができればそれで十分である。それなのに、足し算引き算よりも、ヘロンの公式とか三角関数の定義(証明とか手を動かすものではなく、ひたすら定義)を一生懸命勉強している感じ。材料としてヘロンの公式は知っているけど、使い方がわからないというか。・・・・あれ、なんか数学の話になってしまった。
わたしが言いたいのは、英語を普段の生活で使うレベルで使う、つまり話すとか簡単な文章を書く、ということは、加減乗除に近いのではないだろうか、ということである。話すときには「この単語のスペルはxxだ!」とか「これは副詞だ!」なーんて考える必要はない。もっと足し算、引き算レベルの簡単な何かを瞬時にやる必要があるのである。瞬時にできるようになるには場数、繰り返ししかないような気がしている。
で、場数を踏むとか繰り返しとかは日本の教育の(3)が優れているような気がするんだけど、今のところ(1)(2)は「日常で英語を使う」というところにフォーカスを当てていないので、さあ喋らなきゃ!となったときに困ってしまう。

他の国の人たちの何かを学ぶ姿勢って全然ちがう。わからなくても手を挙げてしゃべろうとするし、質問もめちゃくちゃする。文法めためただし、言ってることを多分きちんとしたスペルで書けないけど自分の考えは表現しようとするし、副詞を形容詞と思っていようとも、それを正当化するために議論はいとわず、言葉を重ねる。
そりゃー圧倒的に喋れるわけである。日本人には、わからないときは手を挙げない、文法めためただったら恥ずかしくて喋れないって人が多いもん。

以前参加した異文化コミュニケーションに関するセミナーの中で、日本人と長く仕事をされてきたという講師のアメリカ人の方がこんな風に日本人の英語を評していた。
「日本は教育レベルが高く、小中高とすごく勉強をしている。だから書かれている英語は理解できる。でも、残念ながら日本の英語教師は英語がしゃべれない人が多く、書く力と比較した場合、話す力、聞く力は弱い」
ちなみに大学は小中高までの勉強で燃え尽きていて、4年間のお休みみたいなものだ、とも言っていたけどね・・・・

ふと、日本の英語教育は何を目指しているんだろう?と思って調べてみた。
今、高校には「英語会話」という教科があるらしい。文部科学省の「新学習指導要領」によると、英語会話の目標、内容はこんなことだそうだ。

高等学校学習指導要領(文部科学省)


1 目標英語を通じて,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに,情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりする能力を更に伸ばし,社会生活において活用できるようにする。 

2 内容

(1) 生徒が情報や考えなどを理解したり伝えたりすることを実践するように具体的な言語の使用場面を設定して,次のような言語活動を英語で行う。
  • ア 相手の話を聞いて理解するとともに,場面や目的に応じて適切に応答する。 
  • イ 関心のあることについて相手に質問したり,相手の質問に答えたりする。 
  • ウ 聞いたり読んだりしたこと,学んだことや経験したことに基づき,情報や考えなどを場面や目的に応じて適切に伝える。 
  • エ 海外での生活に必要な基本的な表現を使って,会話する。

(2) (1)に示す言語活動を効果的に行うために,次のような事項について指導するよう配慮するものとする。 
  • ア リズムやイントネーションなどの英語の音声的な特徴,話す速度,声の大きさなどに注意しながら聞いたり話したりすること。 
  • イ 繰り返しを求めたり,言い換えたりするときなどに必要となる表現を活用すること。 
  • ウ ジェスチャーなどの非言語的なコミュニケーション手段の役割を理解し,場面や目的に応じて適切に用いること。

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これだけだとあんまりよくわからなかった。確かにこれができたらしゃべれそうな気はするけど、逆にすべてをひろくカバーしすぎててよくわからない。
実は指導要領を引っ張り出してきて、これじゃだめなんじゃないのーーとかコメントしようかと思っていたのだけど、うん、まあ、玉虫色ですな・・・・
しかしこの、目標のあいまいさって、日本人の多くの人が「英語できないな・・・・」と感じる根幹にある気がする。
どうなれば目標達成なのか。ペラペラ?じゃあペラペラって何?ネイティブみたいに喋ること?発音は?・・・・と、よくよく考えてみると、達成レベルはよくわからないのである。

指導要領と言えば、アメリカ人の同僚が以前日本で英語を教えていたときのエピソードを教えてくれた。
彼女は小学校に行って英語を教える仕事をしていたそうなのだが、ある日、生徒のひとりが「Here you are」と言って物を渡してきたのに対して、「Here you areは丁寧すぎるから、Here you goのがいいよ」とネイティブらしい指摘をしたそうだ。
そのあと彼女は日本人の先生に呼ばれ、「指導要領ではHere you areになっているので、勝手に教えられては困ります」と釘を刺されたらしい。ネイティブが自然な言い方を教えているのに、おかしいと言われることが納得できなかった、と彼女は苦笑しながら話してくれた。

言語は生き物、とはよく言われる。ブラジルの日本人街で日系人の方たちが話す日本語はちょっと古めかしいらしい。話す量が少ないので、言語としての進化が止まってしまっているからである。ベルギー人の同僚いわく、カナダのケベックで話されているフランス語もそうらしい。
学校の授業時間は限られているから、「生きた英語」を教えるのは難しいのかもしれないけど、誰かいつ決めたかわからない、「正しさ」を追い求めて、言葉が生き物であるということを考えさせる経験すら奪うのはちょっと違う気がする。


前述のセミナーの中で、別のアメリカ人講師の方がおっしゃっていた言葉が勇気づけられるものなので、この言葉で今日のブログを終わりにしたい。

「コミュニケーションは双方向なもの。会話をする場合は、相手を尊重し、話していることを理解し、答える責任がある。だから、英語が話せない、というのを気に病みすぎる必要はない。とにかく話して、コミュニケーションをとろうとすることが大事なのではないでしょうか」

何かを伝えて、何かを生み出すコミュニケーションとは双方向なもので、一方的にうわーーーーっと言って終わるものじゃない。これ、日本語と英語だけの問題じゃないなあ、と思った。

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